罰則条項


 それが、いつ潰れたのか記憶にない。
いや、いつ響也の手を離れたのかすら、覚えていなかった。
 床の上でぐしゃりと形を変えた袋を、成歩堂は腰を屈めて手を伸ばす。指を入れる様にと開けられた穴に中指を入れて持ち上げれば、不規則に左右に揺れた。
 余り重さを感じられないところを見ると、固い器に入った代物ではないのだろう。きっと、重力に従いぺったんこだ。

「…拙いよな、これ…。」

 袋を眺めて、唇を覆う様に顎を玩ぶ。視線は、自然に、三人掛けのソファーに横になっている響也に向けられた。
 背凭れに背中を押し付け、両腕は床に向けて投げ出している。長い脚はどうにも収まりがつかないのか小さく折り曲げられていた。規則正しく上下する胸が、未だに眠り込んでいる事を成歩堂に教えてくれる。
 目が覚めたらきっと苦情を言ってくるよねぇ…。
 大好きな兄への貢ぎ物。成歩堂がポンと出せる値段のものではないだろうが、潰してしまった原因も、面会時間を過ぎてしまっただろう時刻も、無関係とは言い難い。…けれど。

 響也が本気で嫌がらないから悪い。

 自分勝手な理屈で締めくくり、成歩堂は潰れた袋をテーブルに置いた。そのまま、響也と向かい合い腰を落とす。そして、何もする事がないので、ジッと眺めた。
 相手が眠っているので遠慮なく見つめれば気付く事がある。

「…僕は間違いなく面食いだね。」

 つくづくと思う。学生時代に傾倒していた女性は、万人が見て万人が綺麗だと告げる相手で、自分は夢中になったものだ。
 でも、惹かれるのはそれだけでは無かった。
 言葉をどういう風に繋げていけば、響也に上手く伝わるのかはわからない。有り体に事実だけを述べると、『同情』なのかと返されそうで恐いし、好きとか嫌いという上滑りの感情とも何処か違う。
 けれど、響也を求めている時、不思議と自分は素直だと思う。
「なんだろうなぁ…ホント。」
 腰を持ち上げて、指で頬にかかった響也の髪を払ってやる。小さく身じろぎ、長い睫毛が震えた。
 ゆっくりと開く瞳の、濡れた碧に成歩堂は一瞬喉を鳴らした。
「響也くん。」
 上手く捕らえきれない視界とは違い、耳は声を正確に聞き取ったようだった。その証拠に触れていた彼の身体が強ばるのがわかる。水色の瞳は情事の余韻を残しつつも、眉間はきつく皺を寄せていた。
 こういう表情も良い。と成歩堂は思う。従順なだけではないそれは、鳩尾をざわつかせる。
「よく眠っていたよ。無理もないけど。」
「…。」
 ふいと顔を横に向ける。触れていた指先が離れるのは寂しい。
「身体、大丈夫かい?」
 常と変わらず声を掛けた成歩堂は、ぎょっと目を見開いた。椅子にその顔を埋めながら、響也の身体は小刻みに震えていた。唇を噛み締め、声を殺してはいるようだけれど、漏れ聞こえるのは嗚咽ではないだろうか。
 成人を超えた大人の男が、声を殺して泣く様子などそうそう見るものではない。まして、泣いている本人はあの(響也)だ。
 他人に弱味を見せる事を極端に嫌う勝ち気な性格の彼が、それこそ一番弱味を見せたくないだろう自分の前で泣く事など考えたこともなく、成歩堂は言葉を失った。


 爆発しただけだ。
 気持ちはいつもシンプルだなんて、大嘘で。沸き上がる熱さに押される様に、涙が響也の頬を伝った。
 たかだか、成歩堂の顔を見ただけで…だ。
 胸が詰まって息が出来ない。無理矢理でも息を吐いてしまえば、其処に詰め込んでいるものがあっという間に出ていきそうで、呼吸は極端に短くなった。
 ギュッと握りしめた拳に目を押し付ける。途端、ふわりと後頭部に落ちる手があった。
 この状況化、その手は成歩堂のものだろう。
けれど、いつもの強引なものではない。触れるか触れないか、髪をふわふわと弄るように表面を撫でる。
 そうして手に力が入ったかと思うと、次の瞬間には距離を取る。躊躇うように、伺うように掌の動きは柔らかい。それ以外の場所にはいっさい触れる事もなく、手付きに性的な衝動も感じられない。
「…その…平気かい?」
 声も手同様に、ゆっくりとしたもの。一語一語を区切っている。
 これは躊躇いだろうか? 急に泣き出した自分を持て余しているのだろうと響也は思う。年端もいかない子供でもあるまいし、胸が詰まっただけで泣けるなんて自分自身も驚いたのだ、成歩堂はそれ以上だろう。
 きっと困っている。いや、同情を誘っているなどと思われたのではないだろうか、それだけは嫌だ。強がりでも、自尊心でも良い。手放したくない感情の為に響也は一度ギュッと下唇を歯で噛み、顔を上げた。
 平気だと告げる為に開いた瞳は、涙で滲んだ成歩堂の輪郭を写す。
何を想像していたつもりは無かったが、響也は彼の顔に違和感を覚えた。何故と思い、初めて見た表情なのだと気付く。
 人を揶揄するような表情でもなく、言葉を飲み込んでしまう惚けたものでもない。
太い眉を下げ眉間に皺を寄せている。薄く開いた唇は、まま動かない。ツンツンとした髪はそのままなのに、顔の部品は全て緩い感じだ。

「…のさ…。」

 はっきりしない口調も初めてだ。こちらの行動を誘い、論う台詞が聞こえない。

「その…。」
「平気だ。」
 響也は不審なまま声を発する。
「うん…。」
「平気。」
 答えを重ねれば離れていくだろうと思っていた成歩堂は、相変わらず後頭部をさすりながら、奇妙な笑みを浮かべる。それとも、口の端が引きつっているだけなのか?
「やめてくれって言わないと、やめないの?」
 ズッと鼻を啜って、響也は不手腐れた声を出す。
「そうじゃなくて、離れ難いっていうか…。」
「アンタの言ってる事の半分もわからないよ。」
「うん、そう思う。」
「…これが、連勝を重ねた弁護士なのか…い。」
 口に出してしまったと思う。響也は、上目に睨みつけながら成歩堂の行動を待った。こういう言葉を口にすれば、この男は必ずと言っていいほど目を細めて笑う。
それは、成歩堂を怒らせた証拠だ。
 しかし、成歩堂の表情はやはり変化が無かった。
「思いついた言葉を繋げていくのも慣れたものだと思ったけど、むず痒い言葉は出て来ないものだね。」
 それどころか、くしゃりと笑った。お嬢さんやおデコくん相手に見せていた笑顔に、響也は息を飲んだ。柔らかく、優しい瞳は、決して自分に向けられる事がないものだと信じて疑った事などない。
 これが無意識なのだとしたら、高鳴る胸がただ惨めだ。

「何笑って…アンタは僕の事、嫌いなんだろ!」

 片手をソファーに置き、後頭部に置かれた成歩堂の腕を突っぱねながら上半身を起こした。やっと離れた腕に、安堵と切なさが交差する。
 そうして、成歩堂の表情が引き締まっているのを見てとり、響也の身体は強ばった。今度こそ、本当に怒らせたのだ。

「…声掠れてるね。セクシーでいいけど、何か飲むかい?」

 しかし、思う展開にはどうしても向かわない。響也は胸の中で両手を上げた。答えを待っているらしい成歩堂に、製品名を告げてやる。
 何それと書いてある顔に、『飲み付けているミネラルウォーターだ』と言えば、納得したようだった。
 元よりこの事務所になぞあるはずがないものだろう。成歩堂も躊躇いなく服装を整え身支度を始める。床に落ちていたお決まりのニット帽子をかぶると響也を見る。
 静かな瞳に、目が離せなくなりそうで、響也はあわてて視線を逸らした。

「…後でゆっくり話をしよう。色々、話したい事があるんだ、直ぐ戻るから。」

 そうして、事務所の扉は開いて閉じた。見送る響也は、ふっと笑みを浮かべる。
 直ぐなぞ無理な話しだ。その製品は、そこらのコンビニでは手に入らない。都心の特定の店にしか置いていない代物だ。どう頑張っても一時間は帰ってこれないはずだ。
 安堵に似た溜息を吐いた響也は、成歩堂のいなくなった事務所を見回し、机上の潰れた袋に目を止めた。





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